文転のこと、ぱてゼミのこと。

こんにちは。皆さんがHNを出されている中大変恐縮ですが、ひとまずは匿名で書かせてください(自分語りはいっぱいするのにね)。ぱてゼミのアドベントカレンダー企画にお誘いをいただき、「ぱてゼミと文転と私」、とかでどう?と具体的なところまで鮎川講師にお話をいただいたので、今回は少しその辺りのことを書いてみようと思います。以下概ね時系列に沿った自分語りが展開されていると思ってください。他の人のアドベントカレンダーを少し読んだのですが、この文章は少し鬱々としすぎているきらいがあるかもしれません(どうやったらそうでない文章が書けるんでしょう)。それとこんなに自分語りをしている人も多分あんまりいない気もします。

 

文転をしました。正確には前期の必修単位を一つ落としているのでまだ確定ではないのですが、ともかく文転をしました。文転と一口に言ってもいろいろな転じ方があると思うのですが、理科一類から文学部に進学する予定です。

 

もともと理系で入ったのにはあまり深い理由もなくて、まあ入りやすそうだし理系で入るか、みたいな感じでした。当時の自分は英語と化学と地理が苦手で、近い国立にしろ、浪人はするなという親の圧もあり、高校二年の時に東大の理系に入ることを決めました。文系に行きたいという気持ちもあったのですが、東大に行けば文転もできるという譲歩を含んでの進学先選択でした。理系として生きていくなら物理学がしたいなあ、などとぼんやり考えていたと思います。

 

文系に行きたいと一方で思っていたのは、高校一年の夏に岡真里の『棗椰子の木陰で―第三世界フェミニズムと文学』を読んだからでした。家の近くの図書館に行くまでの長い長い坂を登りながらその本を読んでいたことを今でも覚えています(当時どれだけ内容を読めていたかについては疑問の残るところですが)。本文中で問題となっている『0度の女―死刑囚フィルダス』(ナワル・エル・サーダウィ著, 鳥居千代香訳、三一書房,1987)にも触れ、その経験は当時の自分に大きな衝撃を与えてくれました。岡真里先生の本で扱われていた内容としては記号論やテクスト論といったものでしたが、岡真里先生のプロフィールから自分は文化人類学という概念に(文字列に)触れ、興味を持っていったのだったと思います。そこからは文系に行って文化人類学をするのもありだな、というふうにぼんやりと考えていました。

 

自分の文転に劇的な転機はありません。大学に入った自分は、いくつかの面白い授業と出会ったり、少しずつ今後のことを考えたりして、方針を変えていきました。その中でゆっくりと理系が消えていって、ゆっくりと文系がその存在感を強めていきました。

理系として在籍して数ヶ月で数学、物理学の授業からは面白さが薄れていきました。板書を写してなんとか理解しようとする、理解できなくて寝る、理解を放棄する、試験に出そうな部分の問題の解き方を覚え、そこから理解しようとする、例題をいくつか解いてみる等の行動を取りましたが、それらは結局「理解したところで何だ?」という思いに結実していったように思います。何かを理解すること自体は楽しいのですが、その先が自分には全く見えず、韜晦に満ちているようにしか思えませんでした。今にして思えばインプットの量が足りなかったのかもしれません。思えば入学式での上野千鶴子氏のスピーチ中に自分の前に座っていた学生が中くらいの声でスピーチを茶化しているのを見た時からでしょうか、とにかく何か当時の自分の周りの空気に対する失望や反感みたいなものがあり、自分はこのままでいいのかということを強く自問することがありました。もっと他に考えるべきことがあるんじゃないのか、ということでした(それは文系に行かないと不可能か?ということについてはもっと考える余地があったかもしれません。理系から逃げたいという欲求が一方で確かにあったでしょう。)。

そうしたことを考える中でも文系の授業には楽しいものが多く、物事を深く考える姿勢を涵養できたように思います。もちろん文系と理系とを簡単に対置させたい/していいわけではないですし、どのような学びを得るかというのは学生の態度や性質によるでしょう(そういう意味で自分には理系に生きる根性が足りなかったのかもしれません)。よく記憶しているのは田辺先生の文化人類学I(総合B)、森本先生の表象文化論(総合A)、原先生の精神分析学(潜りで受講していました)、蓑輪先生の比較文化論(総合A)、現代経済理論(オムニバス、総合C)、そしてぱてゼミでした。今回はこういう機会なので、ぱてゼミについてもう少しだけ書いてみます。

 

ぱてゼミの優れた点はいろいろな思考の道具を得られる点、そしてそれをまっさらな状態から受け取る同じ立場の学生が大勢いるということにあると思います(まっさらな状態から受け取ることができるのは概念に対する丁寧なイントロダクションあってのことでしょう)。自分はボカロをあまり聞かない人間だったのですが、ボカロをよく聞く人にはそうしたボカロ仲間を見つけやすいというメリットもあるでしょう。道具を得られると書きましたが、実際には受講している多くの方は触れられている概念について半分くらいはすでにどこかで聞いたことがあったのではないでしょうか。自分にとってぱてゼミは高校現代文で触れた概念のある種サルベージとして機能していました。概念を呼び起こしつつ、親しみやすい素材を用いての分析を通して概念に慣れていくことができました。一方で「何にでも思考の遡上にあげてしまう」といった知的態度を取らないようにするための注意が必要ではないかと感じたこともあります。芸術にはある種感覚でしか捉えられないものはないか?言語化不能性を孕んでいるといったことはないか?これは一見ぱてゼミに待ったをかける態度かと思われるかもしれませんが、実際にこうした<当たり前>の空気の前で立ち止まることを教えてくれたのはぱてゼミでした。「当たり前に抗する」はsexualな問題について考えようとする場面以外でも、普通に私たちの生活を一歩掘り下げてくれる知的態度です。そうした態度の涵養を通して実に多角的な視座(比較的多角な、ということです。念のため)を与えてくれたこと、これが結果として自分がぱてゼミから受けることになった恩恵だと感じています。

振り返ってみればぱてゼミを一年生の前半で受けたのは自分にとってはかなり幸運なことでした。ある種転機と言い切っても良いかもしれません。何かについて考えることについて輪郭を与えてくれた授業でありました。このような授業もあって自分の意識はだんだん人文系の、特に文化人類学の方向に輻輳されていくことになります。

 

最後に今の話につなげたいと思います。自分が今文化人類学を専攻していないのは進振りで行けなかったことが直接的な原因ですが、極論自分が(何か学びたいことを学ぶために、それは専攻でなくても構いません)頑張れる環境であれば進振りの行き先などどこでもいいのだと思います(それでも第二外国語はちゃんとやっておくとお得です)。自分が教養学部でなく(文化人類学が東大で専攻できるのは今のところ教養学部超域文化科学分科だけだと思います。自分は進振り留年も視野に入れていました)文学部進学を決めるのを後押しした文章に、椎名登尋さんの次のような文章があります。少し長いですが引用してみます。

近年、人類学で「taking X seriously」という方法論的態度が主張されている。ある事象を安全な位置から参与観察する人類学者の特権性を突き崩し、「より内在的な観察」を目指すという態度だろう。
だがふつう、ひとが「あなたの言い分を真剣に受け止めますよ」と言うとき、そう主張する当人の態度は決して崩されることなく保護されてはいないだろうか。逆に、本当に真剣に相手の言い分を受け止めるとき、「相手の言い分を受け止めます」とひとはいわないものである。
もしこの方法論を真摯に突き詰めようとするならば、「living X seriously」、すなわち「文字通り生きてみる」という態度が要請されるのではないか。

(椎名登尋「不明の草原」『たぐい vol.1』、2019年、pp34-44)

 

Xを文字通り受け止めること、それにとどまらずXという現実(≠認識)を生きること、というのはこの文章を読んでから自分の一つ大きな課題でした。どうしたら居丈高にならずに、相手に目線を合わせられるか、否、相手の目線になることができるか。そのことを学ぶにはもっと個別の文化に十全に触れる必要があるのではないかという思いは一年の後半から感じていたことです。学びたいことを学ぶのに何を専攻するかというのはあまり関係ないと言ったばかりですが、”今”文化人類学を学ぶことに固執する理由も見えなくなっていきました。そうして進振りにあたって(超域文化もダメ元で出してはいましたが)、新たな考え方を得るという経験を得たいという思いで今年文学部人文学科の門をたたきました。以上が自分が今ここにいるまでの際立った色々になります。

最後にこのようなことを残しておく機会をくださった鮎川講師に感謝を。鮎川講師からの提案がなければこのような文章を自分が書くことはなかったと思います。こうした形で自分語りをすることは今までなく、不特定多数に読まれる前提で文章を書いた経験も乏しいので、散逸した文章になってしまっているかと思いますが、文章を読んでいただいた時間が何か有意義なものになっていれば重畳の至りです。