「らしさ」ってなんぞや?

これは、東大ぱてゼミアドベントカレンダー企画「#ぱドカレ2020」12月19日の記事です。素敵な記事がたくさんありますのでどうぞこちらからご覧ください↓↓

東大ぱてゼミAdvent Calendar 2020 記事まとめ - tps_blog’s diary

 

 

はじめに

 皆さんこんにちは。初めまして。突然ですがこれからお話しする前に少しでも僕のことを知ってほしいので自己紹介しようと思います。ス―――(深呼吸の音)「僕の名前はきのココです!東京大学文科二類の一年生!フランス語選択!性別は多分今のところ男!趣味は自転車旅行と音ゲー!好きな食べ物はポン酢炒め!好きな音楽はボーカロイド!尊敬している先生は鮎川ぱてさん!Twitterは呼吸!」

・・・とまあこういった感じです。これを読んだ皆さんは僕に対してどんな印象を抱いたでしょうか?名前を聞いて胞子で眠らせてくるポケモンの姿をイメージした人もいれば、皆さんの持つ東大生像をイメージした人もいるでしょう。同じ大学の人であれば、フランス語選択の人が持つある一定の傾向みたいなものから僕の人間性をイメージしたでしょうし、Twitterをやっている人からすればTwitterばっかりやっている人のステレオタイプ的なイメージを重ねたことでしょう。

このように、僕の持っている様々な属性は、他者から見た僕を形成する材料となっているといえます。しかし、それは時に材料としての範疇を超えて、僕全体に覆いかぶさるように僕のことを縛り、規定しようとしてくるのです。

 

「東大生は○○である」「東大生らしくないね」

例えば、↑こういった言説です。自分がその構成員の一人になったこともあってか、ここ数か月やけに目に付くようになりました。「東大生のノートは綺麗」「東大生のファッションはダサい」「東大生は仕事ができない」などなど・・・。

言うまでもなく、東大生は1学年だけでも3000人以上いるわけで、皆が皆共通する属性を持つなんてことはないでしょう。(それこそ『東大に合格した』ということくらいです)百歩譲って「多くの~」とか「~な傾向がある」とかだったらまだわかりますが、注釈抜きで「東大生はこうだ!」みたいに言われるとそれが自分自身と乖離があるなしに関わらず僕は強烈な違和感を覚えます。(そのため、僕はこのように対象が過度に広すぎる主語のことを軽蔑の意味を込めて「クソデカ主語」と呼んでいます。)

皆がそうであるはずなんかないってことは少し考えればわかるであろうことなのに、どうもこのクソデカ主語を用いた言説の背景には「ある属性を持つ人は共通した性質を持つ」ということが自明なものとして存在しているようなのです。そしてそれが極まったものが「東大生らしい」という言説でしょう。

 「イカ東(いかにもな東大生の略)」という言葉がある通り、東大生に対しては学外の人も内部の人もある程度共通したステレオタイプ的なイメージを持っていることでしょう。そしてそのステレオタイプ的なイメージがそもそもの東大生の基準点としてそれにどれだけ近いかで「東大生らしい/らしくない」と言われてしまう場合があります。学内の人が身内の間柄で冗談半分に自己言及に近い感じで言うならまだしも、実際の感じをこうしたステレオタイプなイメージしか知らないような部外者の方にこれを言及されたりするのには不快感を覚える人は多いのではないでしょうか。

 

 

ジェンダーから規定される「らしさ」

そして、この“らしさ”や“クソデカ主語”よる断定の問題はジェンダーに関わる場合更に深刻度が増します。「ジェンダーがどうである」というのも「東大生である」やら「ボーカロイド音楽が好き」と同様に属性の一つともいえますが、人の根幹にかかわる最重要の属性であることは皆さんもこれまで生きてきた中で十分実感していることでしょう。先に上げた属性は生きていくうえで頻繁に出てくるかもしれませんが、ジェンダーという属性はどこで何をするにも常に人生に付きまとうものともいえます。そして、性別に関わるステレオタイプは人類の営みの中である程度固定化されてきた歴史的背景もあり、それがより自明なものとして会話の節々に入ってきてしまいます。例えば、私の友人の女性はあるとき「うどんやラーメンが好き」と言った時に「女なのに意外」と言われたり、食器を自分で洗うと言った時に「そこは普通に女子なんだね(笑)」と言われたりしたことがあるそうです。僕自身も「男なら泣くな」と言われたり、「全然男らしくない」と言われたりしたことは何度もあります。皆さんもこういう言説は何度も耳にしたことでしょうし、普通に会話の中で言ってしまっている人もいるでしょう。

しかし、「男らしい人」「女らしい人」にどんな人もなりたがっているというのは果たして自明のことでしょうか?社会に目に見えて存在するジェンダーイメージに沿ったありかたを志向するのは全ての人の共通の目標なのでしょうか?望んでないのに「女らしさの度合い」や「男らしさの度合い」を評価されたり、時にからかわれたりすることが往々にして発生していないでしょうか?

 

 

「“あなた”らしい」「“じぶん”らしい」とは?

 これまで言うってきたようなステレオ的な見方によって自分が規定されるというのは何も自分の内にある属性だけの話ではありません。自分自身ですらそのステレオタイプが生まれる対象となりえます。それは、「あなたらしくない」だったり「お前そんなキャラだったっけ」というような言説です。

これらは他者が持つ「僕」についてのステレオタイプの押し付けであるということができます。僕がその他者に見せた行動や言動が他者の視点から切り取られ、統合されて「僕に対するイメージ像」を作り上げられ、「お前は私が作ったこのイメージの範疇に収まる行動をするものだ」という圧力をかけてくるのです。勿論、発言者にこうした明確な考えあることはほとんどないでしょうが、結果的に他者が抱いた幻想の僕らしさに沿って行動しなければならないように思えてきてしまいます。そして質の悪いことにこのような言説は多数の他者がいるときにも頻繁に使用されるもので、そこでの他者からの圧力は集団的でより強大なものとなり、有無を言わさぬ迫力をもってこちらに襲い掛かってくるものであると僕は思います。

 そもそも、「自分らしさ」って何なのでしょうか?今の自分を決めているのは現在進行形でいるところの“この”自分なわけで、それ以外の何物からも本質的に決定付けられるものではないでしょう。しかし、時に「自分らしくありたい」と一人称視点から語るときもあります。僕もそんな風に思ったことがありますし、「自分らしい自分になる」ことがよしとされるような社会の昨今の傾向も感じている人は多いのではないでしょうか。「自分らしい自分でありたい」とは「他者から規定されない自分でありたい」という意味で使われているでしょうが、それは逆に「自分が規定した“自分らしい自分”でありたい」という意味も持つことになります。ここでの自分らしさを規定しているものは自分の過去の行動や思考に紐づけられたものであるでしょうが、それは本当に自分自身そのままを表しているといえるのでしょうか?「自分らしくあり“たい”」といって願望しているということはつまり、今の自分を決めている現在進行形でいるところの“自分”と「自分らしい“自分”」は違うということがわかります。何を当たり前のことを、と思ったかもしれませんがそれはその通りで、「自分らしさ」というものもそもそも幻想であるわけです。「本来の自分のステレオタイプ」はなりたいと思っているということで原義的に実際に存在しているものとはなりえないのです。

 

おわりに

当人である自分自身がもつ「自分らしさ」ですら幻想であるのに他人の視点で見た自分の行動の一部の、そしてその表象だけで規定する「あなたらしさ」というのはどれだけ当人から外れたものになっているかは言うまでもないでしょう。そして、その全体性の一部である属性だけを切り取って考え出された“らしさ”と当人自身との乖離はさらに激しものとなるでしょう。そんな的外れなもので自分自身を規定されるというのはあまり心地いいものではないでしょうし、そうなるように圧力をかけられるのはとても息苦しいと思います。しかし、僕も含めてどんな人(クソデカ主語)も他者に対して言語的なイメージや「らしさ」といったもので理解せざるを得ません。自分自身でも本当の自分らしさを発見することはできないのだから他者となればなおさらです。そうした解像度の劣るイメージでだけしか、僕たちは他人を認識することは不可能なわけですから、それが相手当人の本質を突くものだと思い上がらず常に自分のステレオタイプなイメージが先行して相手を見てしまっているのだということを忘れてはならないと思います。これはこんな偉そうなことを言っている僕も同様ですので、この文章は自戒の意味合いもあるわけです。みなさんが自分の持つ誰かや何か属性に対しての偏見や、“らしさ”への自明視を考えるきっかけにこの文章がなれることを願ってこの辺で筆(実際にはキーボードですが)を置かせていただこうと思います。

ここまで読んでくださりありがとうございました。またの機会があればどうぞよろしくお願いします。

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それでは!(・ω・)ノシ