ボーカロイドと身体

下駄

 

はじめに

みなさんこんにちは。6期の下駄です。駒場で3回目の1年生をやっています。最近、生協から就活関係の案内が送られてきました。

さてわたしはいま、東京は竹芝……から南に1000kmの小笠原にいます。1000kmというのがどれくらいの距離かというと、東海道·山陽新幹線ののぞみ号に乗って東京から博多くらいの距離です。遠いですねー。その距離をフェリーで24時間かけて移動します。


船の上、密室、24時間……何も進捗が生まれないはずもなく……。ということで移動中にぱドカレを書くことにしました。

 

揺w れw まw しw たw

経験的にカーフェリーでないフェリーの外洋航路は揺れます。今日はこれだけ覚えて帰ってください。

ということでいま宿で突貫工事で書いているので、かなり適当なことを言っていることをご承知いただきたいという前置き、もとい保険

でした。

 

ミスコン&ミスターコンについて

今回はミス&ミスターコンをとっかかりに、ボカロと身体の関係性について考察したいと思います。

ミスコンといえば駒場に立つ多数の看板が思い浮かびます。最初の「顔で判断するな」が有名ですが、私も1枚立てているので探してみてください。

顔という先天的な要素をもとに人を選ぶこと、そしてそれが社会の様々な場所でミスコンと同じく当たり前のように行われていることが批判の要点です。

さて勘のいい人はもう気づいたかもしれませんが、ボカロはある種「顔で判断されない」世界なんじゃないかということを、わたしは考えたわけです。

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編注:この中のどれかとは限りません

ボカロに身体性はない?

ボカロ音楽は、(第一義的には)P(プロデューサー)の作品です。

作品の中では、初音ミクらが歌い、初音ミクらが踊っています。だから、作品を見聞きしただけでは、Pのすがたかたちはわかりません。Pの声、Pの顔、年齢、セックス、ジェンダーセクシャリティ、そのすべてが作品に直接は反映されません。

これは結構革命的なことです。ボカロ以前では、生身の「歌姫」が舞台の上で歌い踊っていました。舞台に上がるためには、当然声がよくなければなりません。声はある程度後天的なものであるにせよ、「顔で判断」も行われてきたことでしょう。

前に戻りますが、ボカロ作品を作るにあたり、Pの声や顔はどうでもいい要素であるわけです。

ところでマルクス共産党宣言の中で次のように述べています。

 

手の労働が熟練と力とを要することが少なくなるに従って、すなわち近代産業がいよいよ発達するに従って、男子の労働が女子と児童の労働にとって代わられる。性の差異と年齢の差異とは、労働者階級にとっては、もはや何らの社会的価値をもっていない。

 

ボカロの登場は、マルクス主義的な解釈によれば、歌手という職人にしかできなかった労働をあらゆる性別、年齢の労働者に開放した、とも捉えられるでしょう。この場合、「ボカロ(VOCALOID)」は歌を「生産」する「機械」とみなされています。

確かに、ボカロは歌をより多くの人々に開放した一方で、音楽的素養がなければ扱えないという障壁を残しています。わたしが明日いきなり曲を書こうとしても無理というわけです。しかし先程の解釈を援用すれば、ボカロは常に進化を続け、より多くの人に扱えるものとなると予想できます。将来はもっと直感的に作品を作れるようになるかもしれません。(ただここでは歌の「生産」が資本を増殖させるというきつめの仮定をしているんですが、本論から逸れるのでその妥当性は棚上げします。)

というわけで、ボカロはPの身体に依拠しない、かっこいい言い方をすれば、Pの身体を超越した表現の場と言えそうです。

 

ボカロは本当に身体を超越しているのか

ここからが本題です。前項ではボカロがPの身体を超越していることを述べました。ここではボカロの世界と身体の活動する世界(現実世界)との相互作用について考察したいと思います。

初音ミクはなぜあの声なのか、なぜあのすがたかたちなのか、と問われて皆さんはなんと答えますか。ヒトが初音ミクを創造したとき、もっと違った声やすがたかたちでもよかったはずです。

ヒトは自分に似せて初音ミクを作った、もっと言えばヒトが持つ「ヒトの歌姫」の表象を具現化したのではないでしょうか。

身も蓋もないことを言えば、ボカロはヒトの声をサンプリングしたものを合成する楽器として登場したのでヒトにそっくりなのは当然です。それにしても多くのPが初音ミクの声とすがたかたちを受け入れており、公然のものとなっていることは特筆できます。

ところで、前項では「ヒトの歌姫」を初音ミクと対比し「声·顔で判断されたもの」として取り上げました。しかし「ヒトの歌姫」が初音ミクのモデルであるならば、初音ミクの声·すがたかたちは現実世界の規範に影響されていることになります。

そう考えると、「ボカロは身体を超越した! 」とは無批判に称揚できなくなってきます。

逆にボカロの普及が現実世界の規範に影響を与えるということもあるのではないでしょうか。つまり、現実世界で初音ミクに似ているものが魅力的に見えてくるということです。初音ミクを「ヒトの歌姫」のシニフィアンとして見ている人(わたしにもそうした傾向がないわけではありません。)の中では当然に起こり得ることです。

さて、現実世界の規範がボカロに影響を与え、ボカロが現実世界の規範に影響を与えるということが何を意味するか、それは現実世界の規範がボカロを通じて再生産されているという構造にほかなりません。もしかしたらこれは以てミスコンを批判していたのと同じ構造かもしれません。

 

おわりに

ふわっと考察していたら「ボカロはミスコンと同じ」という結論になってしまいました。これでは困るので誰か反論してくれるとありがたいです。

ボカロという製品それ自体は、やはり資本主義の産物である以上、既存の規範を再生産する方向で作られているのは間違いないと個人的には感じます。それを乗り越えてきたボカロ文化の歴史を語ればポジティブであるということは言えそうですが、わたしには学がなく……もにょもにょ。

ということで、歯切れの悪い締めくくりとなってしまいましたが、本稿はここで終わりです。最後までお付き合いいただきありがとうございました。