ボカロとにほんご

皆さんはじめまして。ぱてゼミ10期のSOYSAUSEと申します。

 

今回、ぱてゼミ主催のアドベントカレンダーに参加させていただきました。テーマを考えた際、自分の推し曲などの考察を書こうかなとも思ったのですが、いかんせん僕は文章を書く経験の薄い初心者プレイヤーみたいなものですので、内容の込み入った文章よりもエッセイ風に僕自身のボカロに関する思い出を徒然と書かせていただきました。是非気楽に、「こう考える人もいるんだな」と思いながら読んでいただければ幸いです。

 

プロローグ:僕はこういう人です

 あまりこの広大なネットの海に僕の個人情報を流したくはないのですが、ひとつ述べておかないと始まらないので言っておこうと思います。僕は俗に言う帰国子女です。英語圏で人生の半分弱を過ごしたので英語は(自分で言うのも本当にアレですが)そこそこ出来るつもりでいます。(英検準一級は持っていますが英検一級は4回受けて4回落ちました。それ以来英検がトラウマです。)
 ですが、「僕は日本が大好きで、できれば日本にずっと住んでいたい。」と言うとかなり驚かれます。もちろん僕以外にも日本大好きな帰国子女もいっぱいいると思うのですが、やはり「帰国子女=海外志向が強い」と言うイメージなのでしょうか。周りの帰国子女友達にも将来海外に行く、あるいはそこで永住すると言う展望を抱えている人が多いのでそう思われても仕方ないのかなと思うこともよくあります。日本の良さは和食や落語、漫才と言った日本文化への魅力もそうですが、僕はそれよりも「日本語」に魅力を感じているが故に日本が大好きであると自負しているのです。ですので、今回は僕が日本語を好きになったボカロに関連する出来事を皆様と共有できたらなと思います。

 

僕のボカロの入り口

 かなり前の話です。僕は当時リリースされたばかりの『千本桜』にどっぷりとハマっていました。学校から帰るとそれを聞いて、友達と集まった時は3DSからYouTubeを開いて一緒に歌ったり(懐かしい)。日々の生活は当時初めて聞いたボーカロイドの衝撃に彩られ、今でも振り返るとどのシーンでもBGM として『千本桜』が鳴っているような気がします。
 ある日のこと、僕は海外に住んでいた頃の友達であるアレックス君(仮)とチャットアプリで話していました。二人で盛り上がっている内に、やがて「今夢中になっているものは何か」という話題になり、そこで僕は『千本桜』を紹介しようと思い立ちました。しかし、『千本桜』は当たり前ですが日本語の歌ですので紹介してもアレックス君が理解してくれるとは限りません。かと言って『千本桜』を紹介しないのもなんだかモヤモヤする。少しばかり悩んだのち、僕は「英語に翻訳したものを送ればいい」と言う結論に達しました。当時ネットには和訳付きの『千本桜』の動画がいくつかありましたが、おそらく当時の僕は自分の英語力を過信しすぎたのでしょう、「自分で歌詞を翻訳しよう」と思い立ったのでした。(過去の僕がイキリまくってて本当に申し訳ないです。今書いてて体がすごい痒くなってきました。)

 自信満々に『千本桜』の英訳に取り掛かかった僕は、翻訳作業を行なっていく内に日本語→英語の変換がいかに難しいか身をもって感じました(翻訳家さんって本当にすごいです)。ですが、当時帰国子女であることを鼻にかけていた(今思うと死ぬほど恥ずかしいことですけど…)僕は難しさに臆することなく、黙々と翻訳作業を続けました。

 半日ほどかけて和訳を完了させた僕は仕上がった『千本桜』の英訳を見て、ちょっとした違和感を覚えました。例えるならば、なんとか良い感じにステーキは焼けたんだけど、味がしない。そんな物足りなさを覚えたのです。少しの間ウンウン唸った後、やっと理解することができました。理由は単純で、「曲の良さが出ていないから」でした。

 

個人的な『千本桜』の良さ

個人的な見解ですが、『千本桜』の良さはボーカロイドという最新の音楽フォーマットで100年前の雰囲気、いわゆる「大正ロマン」な雰囲気を描いていることで生じる現代文化と日本の伝統文化のミクスチャの「かっこよさ」だと思います。下手な例えで申し訳ないですが、イメージとしては昨年(2019年)のM-1グランプリで話題になった、すゑひろがりずの登場シーンの様なかっこよさです。(誰か分かってほしいです。。。)
 上記で触れている「大正ロマン」な雰囲気は当時における最先端の流行であったであろう衣服、つまり学生服やメイド服を着ているボーカロイドの面々、後ろに映る当時の流行りの文化と思われる物(ジュークボックスや戦闘用ヘリコプターが当時あったのかは謎ではありますが)、あるいは映像全体がセピア調となっていることなどのMVに映るものから感じ取ることができますが、一方で歌詞それ自体からもその雰囲気を汲み取ることも可能だと僕は思っています。
 サビの歌詞である「千本桜夜ニ紛レ」の様に漢字とカタカナが入り混じった文体はおおよそ明治時代から昭和前期頃にかけて用いられた文体(自分調べ)で、日本史の資料集などでも上記の様な文体は明治維新の前後から頻繁に登場してきます。こういった情報から、漢字+カタカナ表記は昔っぽいという印象を受け取ることができますが、こういった知識がなくても僕ら(日本語のネイティブ)は現代社会において日常的に送り仮名などにはひらがなを多用するので、必然的にこの様な漢字+カタカナで構成される文章を見た際には「昔の文章っぽいな」という認識をしてしまうと思います。この「歌詞の言葉の明治・大正っぽさ」がボーカロイドと合わさって、先ほど述べたかっこよさを与えていると僕なりに考えています。

しかしながら、英訳した『千本桜』の歌詞は全編を通してアルファベットで書かれてしまっていますので歌詞自体からは上記で説明した様な「かっこよさ」を感じとることができません。

歌詞からこのような「かっこよさ」が感じ取れないこと、それこそが僕が感じた「物足りなさ」だったのです。

 

ひらがな、カタカナ、漢字

 日本語ってすごいな。完全な翻訳の失敗と共にこう感じました。冷静に考えると、3種類の文字フォーマット(漢字・ひらがな・カタカナ)だけ使用したり、そのいくつかを組み合わせたりすることで特定の雰囲気や意味合いを伝えられるのは他の文化にはない日本語の特色だと思います。例えば藤子・F・不二雄さんのSF作品においてロボットや機械音声によるセリフは本来ひらがな表記であるべき箇所はカタカナに置き換えて、本来カタカナ表記となるべき箇所はひらがなに置き換えることでロボットや機械が慣れない人間の言語を話している雰囲気を文面から読み取ることができます。(以下の画像が例)

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同じようなことは『千本桜』以外のボーカロイドの楽曲にも言うことができます。有名な楽曲を例に出しますが、「モザイクロール」の歌詞に出てくる「私」と「ワタシ」は自分自身を指す一人称の意味としては両者とも同じですが、片方を漢字表記、もう片方をカタカナ表記にすることで(解釈は人それぞれですので具体的な明記は避けますが)それぞれに平等に異なったニュアンスを含めることができます。逆にこれを英語でやってみるのは、かなりむずかしいのかもしれません。英語の主要な一人称は"I"のみで、「モザイクロール」で描かれている違いを示すためにはどうすればいいのか、僕はさっぱりです。(片方の"I"をイタリックにしたりクォーテーションマークを付けたりすると良いのかもしれませんが、どちらかというと片方の強調になってしまって平等に違いを示せているのかと聞かれれば、そうでもない様な気がします。)

 

エピローグ:日本語=終わらない成長

 このように三つの文字があって、その使い方や組み合わせ方で幅広いニュアンスを表現することができる。その魅力を当時感じた僕は、日本語の虜になりました。中高の科目では英語よりも現代文の方が好きになりましたし(成績は置いといて)、帰国子女向けの英語塾に行かされることが本当に嫌で一般的な塾(某アカデミーや某青色予備校)に転塾や入塾した際は日本語で授業が受けられることに感動したほどです。

 けれども、日本語表現は幅広い一方でその幅広さが故に綺麗な文章を書くのにはある程度の才能と練習が要求されるのも事実です。今回僕がパドカレに寄稿した文章は日本語LOVEの身としてはまだまだ改善・成長の余地がある文章であると自負はしています。それでも、弓道や剣道などの武道の様に終わらない成長があるのも僕は日本語を使うことの良さであると思います。翻訳体験からかなりの月日はたちましたが、失敗したものの、『千本桜』の翻訳に挑んで本当によかったと思っています。黒うさPさん、本当にありがとうございます。

 

<補足>
 あの後完成した和訳をアレックス君に送信しましたが、「WOW!後で感想を送るよ!」と返信をもらってから、未だに返事が来ません。悲しい。