東大ぱてゼミAdvent Calendar 2020 記事まとめ

このページでは東大ぱてゼミAdvent Calendar 2020で公開された記事へのリンクをまとめます!(順次更新)

 

12/1 ラワイル

#東大ぱてゼミ とは(ボーカロイド音楽論)|マッド†ラワイル|note

 

12/2 れたす

プログラミングでボカロ曲の歌詞を解析して遊んでみた - Lettuce Diary

 

12/3 はちじ

「東方のボカロアレンジを聴いてみた感想」 - UFO and HSiFS

 

12/4 スギ

ぼく('19)「"ウニ"は食べ物じゃないらしい」|スギ|note

 

12/5 フジヤマ

私がぼからんにハマり、そして離れた理由(前編)|フジヤマ|note

 

12/6 Betwind

「ぱてゼミ描いてみた」 - tps_blog’s diary

 

12/7 匿名1

これからの多様性に向けて - tps_blog’s diary

 

12/8 (1) やわらかハートポイント

ぱドカレ12/8 クリスマスおすすめジャズ|やわらかハートポイント(没概念)|note

 

12/8 (2) 羽藤からす

初音ミクと鮎川ぱて - tps_blog’s diary

 

12/9 せなおまる

「私はせなおまるです。」|Senaomaru_hino|note

 

12/10 白川弥生

VRChatオススメワールド5選 - 白川弥生の日記

 

12/11 竹麻呂

同人即売会のすすめ - blog.takemaro.com

 

12/12 あらいぐま

ぱてゼミ2周目のすゝめ - tps_blog’s diary

 

12/13 昇龍

1日で歌ってみたを投稿する方法 - tps_blog’s diary

 

12/14 しゃちょー

プロセカという神ゲーの布教をす~るぞっ - tps_blog’s diary

 

12/15 (1) clear sound

ぱてゼミとの出会い (とか言いつつ天月さんとの出会いも語る回) - 心のカケラ

 

12/15 (2) おぎさん

東大とぱてゼミとジェンダー - tps_blog’s diary

 

12/16 匿名2

文転のこと、ぱてゼミのこと。 - tps_blog’s diary

 

12/17 しみんはくめい

ボカロ文化とVTuber文化、およびそのキャラクター性について|しみんはくめい|note

 

12/18 shizuka

日向坂46-反復される視線と少女像|shizuka|note

 

12/19 きのココ

「らしさ」ってなんぞや? - tps_blog’s diary

 

12/20 sprite

初音ミクの消失から学ぶプロセカの仕様について | sprite-utのブログ

 

12/21 下駄

ボーカロイドと身体 - tps_blog’s diary

 

12/22 みっきー

企業という近代的主体に飛び込む:卒業生が振り返る東大ぱてゼミ|みっきー - tps_blog’s diary

 

12/23 SOYSAUSE

ボカロとにほんご - tps_blog’s diary

 

12/24 スマ

いろいろ大変だったけどオンラインも悪いことばかりじゃないと思った - tps_blog’s diary

 

12/25 鮎川ぱて

ぼくらと鬼が笑う話|鮎川ぱて - tps_blog’s diary

 

 

 

 

 

 

(ぱドカレ運営)

ぼくらと鬼が笑う話|鮎川ぱて

25日間、多様で豊かなすばらしい記事が続いたぱてゼミアドベントカレンダー、通称「ぱドカレ!」。メイツ(受講生)各位の本気に応えてトリはぼくがやる!と言ったもののゆっくり執筆する時間がありませんごめんなさい……。

なので横着して、現在と未来の話をいっしょくたにします!

 

 

 

メリークリスマス(現在)&ハッピーニューイヤー(近未来)&出版おめでとうございます!!!!!!!(数ヶ月以内の未来)

 

 

 

2021年、#東大ぱてゼミ こと「ボーカロイド音楽論」の内容が、1冊の書籍になります。

これまで東京大学教養学部で5年10期にわたって講義してきましたが、その内容を広く多くの人にお届けする機会がついにやってきました。

ボカロは、あらゆる人に開かれたカルチャーです。ぱてゼミがボカロ自体のその「開かれ方」に近づく日がついにやってきたということです。

同様に、リベラルアーツ=教養もまた、あらゆる人に開かれたものです。そうあるべきものです。案内するのは一介のボカロPですが、ボカロについて考え、そして楽しみながら、リベラルアーツの一端に触れてもらえる本になると思います。

 

ぱドカレには1期から10期まで、幅広い世代(ぱてゼミ内世代)の受講生が参加してくれました。ぱてゼミ各期には、その学期にしかしていない話がほぼ必ずあって、書籍はぱてゼミ最新形でもありますがそれらの総集編にもなります。どの学期に参加したメイツにとっても、新しい議論が必ずあります。「○期メイツだからこその感想」というのが可能だと思うので、刊行後、みなさんのリアクションを聞かせてもらえるのをいまから楽しみにしています。

 

2020年は、多くの人にとって、激動の年だったと思います。望まぬ変更を強いられた人も多かったでしょう。ぱてゼミもまたそうでした。完全オンライン化。しかし悪いことばかりだったわけでもなくて……というのはちょうど昨日のぱドカレで8期9期のスマ氏が語ってくれた通り。(いろいろ大変だったけどオンラインも悪いことばかりじゃないと思った - tps_blog’s diary

ぼく個人は、コロナリスクを大きく警戒して外出を制限し、自宅にこもって執筆を進める日々でした。そんな中で問われたのは次のようなことです。「ぱてゼミは、人の生きる前提が大きく変わってしまったとしても通用する議論をできているか」。

 

この特殊な2020年に書き進めたからこそ、より射程の深い本になっているはず。ぼくはそう確信していますが、実際のところは、来年、本を実際に手にとって確認してもらえたらと思います。

 

累計1200人(たぶんそれくらい)の力を借りて、5年間粒子加速器でぐるぐる回しつづけたものを世に放つわけです。なにが起こるでしょうね。初めて出会うたくさんの読者の方の反応に、ドキドキワクワクしています。このぱドカレのタイトルの「ぼくら」には、未来の読者、すなわちあなたも含まれています。

 

 

本がみなさんの前に姿を表すのはまだあと数ヶ月後。来年の話ですから鬼にバカ受けです。とりあえず年末年始にはそれはまだ存在しないので、そのあいだには力作揃いのぱドカレを読んだりしていただけたら嬉しいです。

 

もっと鬼に受けたいので、2021年のことを予言して終わりたいと思います。

 

世界の状況は、改善する。

ぱてゼミは、変わる。

 

2021年が「ぼくら」にとって笑うほど楽しい年になりますように。それでは、メリークリスマス!

 

 

 

 

 

いろいろ大変だったけどオンラインも悪いことばかりじゃないと思った

 みなさん、メリークリスマスイブ!僕の家は一昨日の夕飯がクリスマスチキンでした。

 

 「東大ぱてゼミAdvent Calendar 2020」12月24日を担当するスマと申します。ぱてゼミは8期に初完走し、9期ではグループワークを補助するファシリテーターとして参加しました。

 

 メリークリスマスイブとは言いましたが、2020年も残りはわずか一週間。もう年末です。思い返せば今年はだいたいの方にとってかなり大変な一年だったのではないでしょうか。新型コロナウイルスの流行で、ある人は家の中で自粛の毎日を送り、またある人は常に細心の注意を払いながら外出し。誰もが多かれ少なかれ去年までとは違う生活を強いられたと思います。

 

 東京大学の学生(学生には限りませんが)にとって、今回の流行による最大の変化は「講義のオンライン化」だったと言って差し支えないでしょう。特にSセメスター(4月〜夏休み)で駒場キャンパスの1・2年生に対して行われた講義は全面的にオンラインとなりました。

 ぱてゼミももちろん例外ではありません。この全面オンライン化に合わせ、2020年度Sセメスターに行われた東大ぱてゼミ9期はニコニコ生放送とDiscordを用いて完全オンラインで行われました。

 

 ところで僕は先程ぱてゼミ8・9期と言いましたね?8期は2019年度Aセメスターですから講義も駒場キャンパス内で通常通り行われていました。つまり、オフラインのぱてゼミとオンラインのぱてゼミを続けて受けたということですね!

 

 ということで本日は、オンライン化したぱてゼミを見た一受講生として、実際に起きた「ある変化」について考えていこうと思います。エッセイ的なものですので、今年を振り返るつもりでごゆるりとお付き合いください。

 

 というわけでその変化なんですが、

 

 

 

 人が増えた

 

 

 

 これです。変化の中でも目につきやすい方といえばそうですが、もう、これが一番印象深い。ぱてゼミには途中でグループワークがありまして、1グループ20人前後でディスカッションを行ってその成果を発表するんですが、9期ではそのグループが10個ありました。つまり200人くらいですね。ファシリテーターも含めると230人程度です。8期は同じくらいの規模で6グループ程度とかだった(少なくとも2桁ではなかった)はずなので、すごいですね(語彙力)。

 

 この人数の変化がオンライン化によるものなら*1それはもうすごい話です。すごい話じゃないですか?特にこのグループワーク(課題となるボカロ曲の考察を行うというもの)は各グループで切り口が大きく異なる発表になることが多く、グループ数の増加は触れることができる考えの多さにそのまま繋がります。というかこれはグループワークでなくても同じですね。

  そういうわけで、もちろんオンラインに至るまで・至った後も大変なことがとても多かったのはわかっていますが、オンライン化に際してぱてゼミ的には嬉しいことがあったと言っていいと僕は思うわけです。せっかくなので、そんなことが起こった理由も考えました。

 

物理的な障壁がかなり払われた

 オフラインで行われる講義に参加するには、まずキャンパスに行かなければなりません。逆にキャンパスに行かなければ講義は受けられないので、まず駒場キャンパス以外からは講義を受けるのが物理的に不可能になってしまいます*2。しかしオンライン化に際して家から講義を受けることができるようになりました。

 また、仮にぱてゼミの講義を行う教室がすべての受講希望者の家と接続されてノータイムで行き来できるようになったらどうなるでしょうか?

 

 ...

 

 正解は「200人が詰めかけた教室がパンクする」でした。[要出典]

 8期で使った教室には200人は流石に入らないと思います。こういった様々な物理的な限界をオンライン化で突破できたというわけですね。

 

遅い時間の講義が受けやすくなった

 勘違いだけはしないでいただきたいんですが、延長イジりではありません。ぱてゼミ9期は6限に行われたので、講義開始の時点で既に時刻は18時半を過ぎています。講義終了は正規の時間割でも20時半です。これくらいの時間になってくるとお腹も空きます。

 言ってしまえば僕なんかは午前中に登校して6限まで勉強して家まで帰る体力はありません。オンラインじゃなかったら(流石に6限はちょっとな......)という感じで2周目の受講*3を諦めていた可能性が高いです。5限に行われた8期でも10分休憩にワッフル*4をかじることでなんとか空腹をやり過ごしていたくらいなので......

 オンライン講義では家が拠点になるので、そのあたりの調整が非常に楽です。まあ僕は講義前に何か食べても、講義で疲れるので結局終わったあとにまた何か食べてたんですけどね。

 この項は自分の話ばっかりでしたね......家だから6限の講義受けられたよって人がいたらぜひ画面の前でウンウンと頷いてください。

 

 

 

 と、このように、講義受けたいけど受けられないな〜と思っていた人がオンライン化で受けられるようになったケースが他にもあると思われますし、少なくともそんな人はここに一人います。

 

 とはいえ、じゃあオンラインが最高なのかと言われればやはりそうではありません。講義を行う側としてリアルタイムの反応がほぼ得られない*5ことで講義を進めにくくなることは想像に難くありませんし、ファシリテーターを務めたことでチャットや通話で議論を行うことの大変さを身を以て感じました。それに、受講者で集まれないとCHUNITHM交流会の第2弾もできません*6

 

 これは僕の感想なのですが、どうもオンライン講義は対面によるそれの下位互換のような印象づけが各所でなされているように思うのです。ですが、今年を振り返ると、オフラインのリアルタイム性・オンラインの柔軟性はどちらも(現状)互いに持ちようのないものだと感じました。このことを踏まえてじっくり検討を続ければ両方の良さを活かした新しい講義方式が見出せるのではないか?*7といった夢想もしてしまいます。

 

 改めて今年は本当に大変な一年でした。ですが、大学に限らず、オンライン化に関して今年行われた様々な試みは、例え来年がどんな年になったとしても無駄になるはずがありません。なんか偉そうだな。しかし本当にそう思っています。半ば強制されるように始まったオンライン化がさらに進んで、オンラインである必要がなくなった後にも「オンラインでコミュニケーションを取る」という選択肢が「直接会う」と同じくらいのものになっていたら、それはきっと素敵なことだと思うんです。あまりにも無責任な発言な気がします。許してください。

 

 それでは、2021年がより良い年になることを願いつつ、僕はこのあたりで筆を置かせていただこうと思います。ぱドカレも明日が最終日。ぜひ最後までお付き合いください。

 

 より偉そうになってしまった気がします。来年の抱負は「慎ましく生きる」に決定です。

 

 

 

*1:ぱてゼミは期ごとに細かい違いが結構ある。例えば講義がある曜日とか、教室とか、5限にやるか6限にやるかとか、単位がつくかつかないかなど。ちなみに9期は単位がつかない回だった。単位関係なく受けたいと思った人が集まって百数十人と考えると、本当に人気のある講義なのだとひしひしと感じる。

*2:今回は「キャンパスに行かなければ講義を受けられない」という障壁を物理的なものとして紹介しているが、これは精神的な障壁にもなりうると言える。が、これに関しては僕が想像だけで語るのはあまりにも軽率だと思われるので、注釈での示唆に留める。

*3:ぱてゼミ2周目の効能についてはこちらの記事もどうぞ→ぱてゼミ2周目のすゝめ - tps_blog’s diary

*4:生協に売っているマネケンのワッフル。おいしい。

*5:受講者の顔が見えないのはもちろん、ニコニコ生放送というツールを使う都合上、講師と受講者の間で無視できない程度のラグが発生する。

*6:ぱてゼミとCHUNITHM(音楽ゲーム)の関係についてはこちらの(ry→ぼく('19)「"ウニ"は食べ物じゃないらしい」|スギ|note

*7:止揚 - Wikipedia

ボカロとにほんご

皆さんはじめまして。ぱてゼミ10期のSOYSAUSEと申します。

 

今回、ぱてゼミ主催のアドベントカレンダーに参加させていただきました。テーマを考えた際、自分の推し曲などの考察を書こうかなとも思ったのですが、いかんせん僕は文章を書く経験の薄い初心者プレイヤーみたいなものですので、内容の込み入った文章よりもエッセイ風に僕自身のボカロに関する思い出を徒然と書かせていただきました。是非気楽に、「こう考える人もいるんだな」と思いながら読んでいただければ幸いです。

 

プロローグ:僕はこういう人です

 あまりこの広大なネットの海に僕の個人情報を流したくはないのですが、ひとつ述べておかないと始まらないので言っておこうと思います。僕は俗に言う帰国子女です。英語圏で人生の半分弱を過ごしたので英語は(自分で言うのも本当にアレですが)そこそこ出来るつもりでいます。(英検準一級は持っていますが英検一級は4回受けて4回落ちました。それ以来英検がトラウマです。)
 ですが、「僕は日本が大好きで、できれば日本にずっと住んでいたい。」と言うとかなり驚かれます。もちろん僕以外にも日本大好きな帰国子女もいっぱいいると思うのですが、やはり「帰国子女=海外志向が強い」と言うイメージなのでしょうか。周りの帰国子女友達にも将来海外に行く、あるいはそこで永住すると言う展望を抱えている人が多いのでそう思われても仕方ないのかなと思うこともよくあります。日本の良さは和食や落語、漫才と言った日本文化への魅力もそうですが、僕はそれよりも「日本語」に魅力を感じているが故に日本が大好きであると自負しているのです。ですので、今回は僕が日本語を好きになったボカロに関連する出来事を皆様と共有できたらなと思います。

 

僕のボカロの入り口

 かなり前の話です。僕は当時リリースされたばかりの『千本桜』にどっぷりとハマっていました。学校から帰るとそれを聞いて、友達と集まった時は3DSからYouTubeを開いて一緒に歌ったり(懐かしい)。日々の生活は当時初めて聞いたボーカロイドの衝撃に彩られ、今でも振り返るとどのシーンでもBGM として『千本桜』が鳴っているような気がします。
 ある日のこと、僕は海外に住んでいた頃の友達であるアレックス君(仮)とチャットアプリで話していました。二人で盛り上がっている内に、やがて「今夢中になっているものは何か」という話題になり、そこで僕は『千本桜』を紹介しようと思い立ちました。しかし、『千本桜』は当たり前ですが日本語の歌ですので紹介してもアレックス君が理解してくれるとは限りません。かと言って『千本桜』を紹介しないのもなんだかモヤモヤする。少しばかり悩んだのち、僕は「英語に翻訳したものを送ればいい」と言う結論に達しました。当時ネットには和訳付きの『千本桜』の動画がいくつかありましたが、おそらく当時の僕は自分の英語力を過信しすぎたのでしょう、「自分で歌詞を翻訳しよう」と思い立ったのでした。(過去の僕がイキリまくってて本当に申し訳ないです。今書いてて体がすごい痒くなってきました。)

 自信満々に『千本桜』の英訳に取り掛かかった僕は、翻訳作業を行なっていく内に日本語→英語の変換がいかに難しいか身をもって感じました(翻訳家さんって本当にすごいです)。ですが、当時帰国子女であることを鼻にかけていた(今思うと死ぬほど恥ずかしいことですけど…)僕は難しさに臆することなく、黙々と翻訳作業を続けました。

 半日ほどかけて和訳を完了させた僕は仕上がった『千本桜』の英訳を見て、ちょっとした違和感を覚えました。例えるならば、なんとか良い感じにステーキは焼けたんだけど、味がしない。そんな物足りなさを覚えたのです。少しの間ウンウン唸った後、やっと理解することができました。理由は単純で、「曲の良さが出ていないから」でした。

 

個人的な『千本桜』の良さ

個人的な見解ですが、『千本桜』の良さはボーカロイドという最新の音楽フォーマットで100年前の雰囲気、いわゆる「大正ロマン」な雰囲気を描いていることで生じる現代文化と日本の伝統文化のミクスチャの「かっこよさ」だと思います。下手な例えで申し訳ないですが、イメージとしては昨年(2019年)のM-1グランプリで話題になった、すゑひろがりずの登場シーンの様なかっこよさです。(誰か分かってほしいです。。。)
 上記で触れている「大正ロマン」な雰囲気は当時における最先端の流行であったであろう衣服、つまり学生服やメイド服を着ているボーカロイドの面々、後ろに映る当時の流行りの文化と思われる物(ジュークボックスや戦闘用ヘリコプターが当時あったのかは謎ではありますが)、あるいは映像全体がセピア調となっていることなどのMVに映るものから感じ取ることができますが、一方で歌詞それ自体からもその雰囲気を汲み取ることも可能だと僕は思っています。
 サビの歌詞である「千本桜夜ニ紛レ」の様に漢字とカタカナが入り混じった文体はおおよそ明治時代から昭和前期頃にかけて用いられた文体(自分調べ)で、日本史の資料集などでも上記の様な文体は明治維新の前後から頻繁に登場してきます。こういった情報から、漢字+カタカナ表記は昔っぽいという印象を受け取ることができますが、こういった知識がなくても僕ら(日本語のネイティブ)は現代社会において日常的に送り仮名などにはひらがなを多用するので、必然的にこの様な漢字+カタカナで構成される文章を見た際には「昔の文章っぽいな」という認識をしてしまうと思います。この「歌詞の言葉の明治・大正っぽさ」がボーカロイドと合わさって、先ほど述べたかっこよさを与えていると僕なりに考えています。

しかしながら、英訳した『千本桜』の歌詞は全編を通してアルファベットで書かれてしまっていますので歌詞自体からは上記で説明した様な「かっこよさ」を感じとることができません。

歌詞からこのような「かっこよさ」が感じ取れないこと、それこそが僕が感じた「物足りなさ」だったのです。

 

ひらがな、カタカナ、漢字

 日本語ってすごいな。完全な翻訳の失敗と共にこう感じました。冷静に考えると、3種類の文字フォーマット(漢字・ひらがな・カタカナ)だけ使用したり、そのいくつかを組み合わせたりすることで特定の雰囲気や意味合いを伝えられるのは他の文化にはない日本語の特色だと思います。例えば藤子・F・不二雄さんのSF作品においてロボットや機械音声によるセリフは本来ひらがな表記であるべき箇所はカタカナに置き換えて、本来カタカナ表記となるべき箇所はひらがなに置き換えることでロボットや機械が慣れない人間の言語を話している雰囲気を文面から読み取ることができます。(以下の画像が例)

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同じようなことは『千本桜』以外のボーカロイドの楽曲にも言うことができます。有名な楽曲を例に出しますが、「モザイクロール」の歌詞に出てくる「私」と「ワタシ」は自分自身を指す一人称の意味としては両者とも同じですが、片方を漢字表記、もう片方をカタカナ表記にすることで(解釈は人それぞれですので具体的な明記は避けますが)それぞれに平等に異なったニュアンスを含めることができます。逆にこれを英語でやってみるのは、かなりむずかしいのかもしれません。英語の主要な一人称は"I"のみで、「モザイクロール」で描かれている違いを示すためにはどうすればいいのか、僕はさっぱりです。(片方の"I"をイタリックにしたりクォーテーションマークを付けたりすると良いのかもしれませんが、どちらかというと片方の強調になってしまって平等に違いを示せているのかと聞かれれば、そうでもない様な気がします。)

 

エピローグ:日本語=終わらない成長

 このように三つの文字があって、その使い方や組み合わせ方で幅広いニュアンスを表現することができる。その魅力を当時感じた僕は、日本語の虜になりました。中高の科目では英語よりも現代文の方が好きになりましたし(成績は置いといて)、帰国子女向けの英語塾に行かされることが本当に嫌で一般的な塾(某アカデミーや某青色予備校)に転塾や入塾した際は日本語で授業が受けられることに感動したほどです。

 けれども、日本語表現は幅広い一方でその幅広さが故に綺麗な文章を書くのにはある程度の才能と練習が要求されるのも事実です。今回僕がパドカレに寄稿した文章は日本語LOVEの身としてはまだまだ改善・成長の余地がある文章であると自負はしています。それでも、弓道や剣道などの武道の様に終わらない成長があるのも僕は日本語を使うことの良さであると思います。翻訳体験からかなりの月日はたちましたが、失敗したものの、『千本桜』の翻訳に挑んで本当によかったと思っています。黒うさPさん、本当にありがとうございます。

 

<補足>
 あの後完成した和訳をアレックス君に送信しましたが、「WOW!後で感想を送るよ!」と返信をもらってから、未だに返事が来ません。悲しい。

企業という近代的主体に飛び込む:卒業生が振り返る東大ぱてゼミ|みっきー

1.就職するまで

 大学時代に受けた授業のひとつ、ボーカロイド音楽論(東大ぱてゼミ)で「近代的主体」のことを知りました。近代という時代に入り、たくさんの部分からなる全体、たくさんの細胞からなる「個人」、たくさんの「社員」からなる「法人」、たくさんの「個人」からなる「国家」が一個の分割不能な主体として捉えられるようになった。主体の行動や思考は全体として統一されていなければならず、全体の保全のためにそれぞれの部分要素は特定の様式に従うことを強いられた、という話です。

講義はそのあと国家による性の管理の話へと続いていきますが、当時所属していた大学やサークルが自由な気風のある組織だったこともあってか、私はどこか他人事としてこの説明を聞いていました。私自身近代という時代に生きている自覚などなければ、とある国家に帰属する国民であるとの意識も限りなく薄かったのです。近代という言葉が指す期間は場合によって様々であり、したがって厳密にはそれが完全に終わったとも言い切れないのかもしれませんが、経験的な実感としては近代とか近代的主体とかはもう遠い昔の話なのだろうと認識していました。

 

 そう、就職を経験するまでは───。

 

2.企業の近代っぽいところ

私は大学を卒業してすぐに民間企業へ就職しました。そこで目の当たりにしたのは、これまで所属していたのとは大きく異なる組織の姿でした。端的に言えば、企業というものは思っていたよりもちゃんと近代的主体をしていたのです。

まず、私の会社では入社直後の研修で「企業理念」や「会社沿革」を紹介され、さらに「社歌」を歌えるように練習しました(今は忘れたなんて言えない)。社是や社史は大半の日本企業ではホームページにも掲載されており、内外へ大きく宣言されたその会社のアイデンティティを構成する要素であることがわかります。これはかつての国家に思想的な統一性を与えた「大きな物語」に相当するものだといえるでしょう。

また社員は就業規則・会社規則その他の定められた様式のもとで行動します。私がいるのは比較的大きな会社なので、細かな仕事の進め方が部署ごとに大きく異なっていることも珍しくはないのですが、いずれもこうしたルールを違えることはありません。

さらに社外の関係者と接するとき、社員はその会社を代表する者として振る舞うことになっています。また社外からもその社員の言動は会社としての意思表示だと理解されるのが普通です*1

 そして会社組織の一員である社員には、会社が掲げる成長目標へ貢献することも求められます。ノルマと呼ばれる明確な目標数値がある場合とない場合とがありますが、いずれも与えられた職責をよりよく全うすることが期待されています。そうして会社が業績をあげると社員にはそれに応じた給与・賞与が渡されるため、会社の成長と(財産的な)個人の成長が同期する恰好となります。

 それぞれ列挙すればあまり違和感のないことにも思えますが、ポストモダンと言われて久しいこの時代においても企業はこのように立派な近代的主体として世間から認識され、制度的には法人格を認められ、また自らも近代的主体であろうと努めていることがうかがえます。

 

3.企業の近代っぽくないところ

 今これを読まれている大学生のみなさんは「そうだったのか! 会社とはなんて恐ろしいんだ!」と思われているかもしれません。余計な心配をさせてしまって申し訳ないのですが、それでも会社員として働くのも悪いことばかりではないと私は思うようになりました。

 会社員・自営業・個人事業主・フリーターなどいろいろな働き方のそれぞれに良いところがあって優劣はないのですが、そのなかで働く場所のひとつとして企業が存在しているのは多分、一人ではできないような大きな仕事を皆でやるためなのだろうと思います。各方面の知識や経験を持った人々が集まり、時には大きな設備を使って、さまざまな商品やサービスを生み出していく。自分が関わっているのはごく一部だけだとしても、それが世に送り出されて誰かのためになっているのを見るとえも言われぬ感動があります。私自身大変な案件もたくさん抱えてきましたが、やっていて良かったなあ、冥利に尽きるなあと感じたこともたくさんありました。

 また先に紹介した類似点に対して、企業が国家と大きく異なっているのはその拘束時間が決まっていることです。日本の法律では労働時間は1日に8時間・1週間に40時間までと定められており、それ以上の時間外労働(残業)をする場合も別途上限があります。つまり人によって時間の多い少ないはあるものの24時間365日のすべてが労働時間になることはありえず、私たちは会社員として振る舞う時間とプライベートな一個人として振る舞う時間が明確に区別されています。

その意味では、家族・友達・SNSなどの「分割された自己開示」のひとつに会社員の顔が加わった状態だともいえます。1日8時間の近代的主体構成員ごっこです。ごっこ遊びがしたくない日は有給休暇を取ることもできるし、会社によってはごっこ遊びの開始・終了時刻を自分で決めること(フレックスタイム制)もできるし、別のごっこ遊びとの掛け持ち(兼業)も認められつつあります。一度産まれ落ちたら基本的に一生そこの国民であり続ける近代国家と比べればこれは画期的(?)なことだと思います。

 また企業にはたいてい「大きな物語」があると先ほど書いたのですが、それは必ずしも上意下達の堅苦しい組織であることを意味しません。企業の主目的は商品やサービスの対価として利潤を得ることであり、そのためにはむしろ立場にかかわらず皆が自由に考えを巡らせてより良い方法を探すことが必要なはずです。近年ますます重視されている従業員のダイバーシティも、国内の人手不足への対策として着目されている面が大きいようですが、こうした闊達なアイデアの創出にも有利にはたらく可能性があります。

 

4.まとめ

 以上のように、企業には近代的主体としての性質を色濃く残している部分が多くありつつも近代国家のような組織の形態と完全に一致することはなく、また時代に応じてより柔軟に変容していくのだろうというのが私の見てきたままの感想でした。就職してしばらくは大きく変わった環境や仕組みに苦労することもあったものの、こんなふうに大学で学んだに当てはめて考えつつ、自分なりの身の処し方ができるようになってきました。

 

 ところでいま私がこうしてアドカレに参加させていただけているように、東大ぱてゼミの門戸は大学を卒業したメイツ(ゼミ生)の皆にも広く開かれています。ボカロや創作やその他諸々を共有できる大切な仲間たちです。これからもお世話になります!それと卒業生メイツのみなさん、これからもドシドシぱてゼミを楽しんでいきましょう!

 最後になりますがぱてゼミDiscordで就活相談グループに参加しています。ご興味ある方はお気軽にぱてさんまでDMをどうぞ!

 

*1:なお、ここでぱてゼミでも触れられた「全体の統一性」が問題になることがあります。社内でまだ十分な合意形成がされていない事柄を、ある社員が社外に対して実行してしまう場合です。一般論としては、従業員が業務遂行の範囲内で第三者に損害を加えた場合には法人自体もその責任を負うことが民法で定められていたりします(使用者責任)。

ボーカロイドと身体

下駄

 

はじめに

みなさんこんにちは。6期の下駄です。駒場で3回目の1年生をやっています。最近、生協から就活関係の案内が送られてきました。

さてわたしはいま、東京は竹芝……から南に1000kmの小笠原にいます。1000kmというのがどれくらいの距離かというと、東海道·山陽新幹線ののぞみ号に乗って東京から博多くらいの距離です。遠いですねー。その距離をフェリーで24時間かけて移動します。


船の上、密室、24時間……何も進捗が生まれないはずもなく……。ということで移動中にぱドカレを書くことにしました。

 

揺w れw まw しw たw

経験的にカーフェリーでないフェリーの外洋航路は揺れます。今日はこれだけ覚えて帰ってください。

ということでいま宿で突貫工事で書いているので、かなり適当なことを言っていることをご承知いただきたいという前置き、もとい保険

でした。

 

ミスコン&ミスターコンについて

今回はミス&ミスターコンをとっかかりに、ボカロと身体の関係性について考察したいと思います。

ミスコンといえば駒場に立つ多数の看板が思い浮かびます。最初の「顔で判断するな」が有名ですが、私も1枚立てているので探してみてください。

顔という先天的な要素をもとに人を選ぶこと、そしてそれが社会の様々な場所でミスコンと同じく当たり前のように行われていることが批判の要点です。

さて勘のいい人はもう気づいたかもしれませんが、ボカロはある種「顔で判断されない」世界なんじゃないかということを、わたしは考えたわけです。

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編注:この中のどれかとは限りません

ボカロに身体性はない?

ボカロ音楽は、(第一義的には)P(プロデューサー)の作品です。

作品の中では、初音ミクらが歌い、初音ミクらが踊っています。だから、作品を見聞きしただけでは、Pのすがたかたちはわかりません。Pの声、Pの顔、年齢、セックス、ジェンダーセクシャリティ、そのすべてが作品に直接は反映されません。

これは結構革命的なことです。ボカロ以前では、生身の「歌姫」が舞台の上で歌い踊っていました。舞台に上がるためには、当然声がよくなければなりません。声はある程度後天的なものであるにせよ、「顔で判断」も行われてきたことでしょう。

前に戻りますが、ボカロ作品を作るにあたり、Pの声や顔はどうでもいい要素であるわけです。

ところでマルクス共産党宣言の中で次のように述べています。

 

手の労働が熟練と力とを要することが少なくなるに従って、すなわち近代産業がいよいよ発達するに従って、男子の労働が女子と児童の労働にとって代わられる。性の差異と年齢の差異とは、労働者階級にとっては、もはや何らの社会的価値をもっていない。

 

ボカロの登場は、マルクス主義的な解釈によれば、歌手という職人にしかできなかった労働をあらゆる性別、年齢の労働者に開放した、とも捉えられるでしょう。この場合、「ボカロ(VOCALOID)」は歌を「生産」する「機械」とみなされています。

確かに、ボカロは歌をより多くの人々に開放した一方で、音楽的素養がなければ扱えないという障壁を残しています。わたしが明日いきなり曲を書こうとしても無理というわけです。しかし先程の解釈を援用すれば、ボカロは常に進化を続け、より多くの人に扱えるものとなると予想できます。将来はもっと直感的に作品を作れるようになるかもしれません。(ただここでは歌の「生産」が資本を増殖させるというきつめの仮定をしているんですが、本論から逸れるのでその妥当性は棚上げします。)

というわけで、ボカロはPの身体に依拠しない、かっこいい言い方をすれば、Pの身体を超越した表現の場と言えそうです。

 

ボカロは本当に身体を超越しているのか

ここからが本題です。前項ではボカロがPの身体を超越していることを述べました。ここではボカロの世界と身体の活動する世界(現実世界)との相互作用について考察したいと思います。

初音ミクはなぜあの声なのか、なぜあのすがたかたちなのか、と問われて皆さんはなんと答えますか。ヒトが初音ミクを創造したとき、もっと違った声やすがたかたちでもよかったはずです。

ヒトは自分に似せて初音ミクを作った、もっと言えばヒトが持つ「ヒトの歌姫」の表象を具現化したのではないでしょうか。

身も蓋もないことを言えば、ボカロはヒトの声をサンプリングしたものを合成する楽器として登場したのでヒトにそっくりなのは当然です。それにしても多くのPが初音ミクの声とすがたかたちを受け入れており、公然のものとなっていることは特筆できます。

ところで、前項では「ヒトの歌姫」を初音ミクと対比し「声·顔で判断されたもの」として取り上げました。しかし「ヒトの歌姫」が初音ミクのモデルであるならば、初音ミクの声·すがたかたちは現実世界の規範に影響されていることになります。

そう考えると、「ボカロは身体を超越した! 」とは無批判に称揚できなくなってきます。

逆にボカロの普及が現実世界の規範に影響を与えるということもあるのではないでしょうか。つまり、現実世界で初音ミクに似ているものが魅力的に見えてくるということです。初音ミクを「ヒトの歌姫」のシニフィアンとして見ている人(わたしにもそうした傾向がないわけではありません。)の中では当然に起こり得ることです。

さて、現実世界の規範がボカロに影響を与え、ボカロが現実世界の規範に影響を与えるということが何を意味するか、それは現実世界の規範がボカロを通じて再生産されているという構造にほかなりません。もしかしたらこれは以てミスコンを批判していたのと同じ構造かもしれません。

 

おわりに

ふわっと考察していたら「ボカロはミスコンと同じ」という結論になってしまいました。これでは困るので誰か反論してくれるとありがたいです。

ボカロという製品それ自体は、やはり資本主義の産物である以上、既存の規範を再生産する方向で作られているのは間違いないと個人的には感じます。それを乗り越えてきたボカロ文化の歴史を語ればポジティブであるということは言えそうですが、わたしには学がなく……もにょもにょ。

ということで、歯切れの悪い締めくくりとなってしまいましたが、本稿はここで終わりです。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

「らしさ」ってなんぞや?

これは、東大ぱてゼミアドベントカレンダー企画「#ぱドカレ2020」12月19日の記事です。素敵な記事がたくさんありますのでどうぞこちらからご覧ください↓↓

東大ぱてゼミAdvent Calendar 2020 記事まとめ - tps_blog’s diary

 

 

はじめに

 皆さんこんにちは。初めまして。突然ですがこれからお話しする前に少しでも僕のことを知ってほしいので自己紹介しようと思います。ス―――(深呼吸の音)「僕の名前はきのココです!東京大学文科二類の一年生!フランス語選択!性別は多分今のところ男!趣味は自転車旅行と音ゲー!好きな食べ物はポン酢炒め!好きな音楽はボーカロイド!尊敬している先生は鮎川ぱてさん!Twitterは呼吸!」

・・・とまあこういった感じです。これを読んだ皆さんは僕に対してどんな印象を抱いたでしょうか?名前を聞いて胞子で眠らせてくるポケモンの姿をイメージした人もいれば、皆さんの持つ東大生像をイメージした人もいるでしょう。同じ大学の人であれば、フランス語選択の人が持つある一定の傾向みたいなものから僕の人間性をイメージしたでしょうし、Twitterをやっている人からすればTwitterばっかりやっている人のステレオタイプ的なイメージを重ねたことでしょう。

このように、僕の持っている様々な属性は、他者から見た僕を形成する材料となっているといえます。しかし、それは時に材料としての範疇を超えて、僕全体に覆いかぶさるように僕のことを縛り、規定しようとしてくるのです。

 

「東大生は○○である」「東大生らしくないね」

例えば、↑こういった言説です。自分がその構成員の一人になったこともあってか、ここ数か月やけに目に付くようになりました。「東大生のノートは綺麗」「東大生のファッションはダサい」「東大生は仕事ができない」などなど・・・。

言うまでもなく、東大生は1学年だけでも3000人以上いるわけで、皆が皆共通する属性を持つなんてことはないでしょう。(それこそ『東大に合格した』ということくらいです)百歩譲って「多くの~」とか「~な傾向がある」とかだったらまだわかりますが、注釈抜きで「東大生はこうだ!」みたいに言われるとそれが自分自身と乖離があるなしに関わらず僕は強烈な違和感を覚えます。(そのため、僕はこのように対象が過度に広すぎる主語のことを軽蔑の意味を込めて「クソデカ主語」と呼んでいます。)

皆がそうであるはずなんかないってことは少し考えればわかるであろうことなのに、どうもこのクソデカ主語を用いた言説の背景には「ある属性を持つ人は共通した性質を持つ」ということが自明なものとして存在しているようなのです。そしてそれが極まったものが「東大生らしい」という言説でしょう。

 「イカ東(いかにもな東大生の略)」という言葉がある通り、東大生に対しては学外の人も内部の人もある程度共通したステレオタイプ的なイメージを持っていることでしょう。そしてそのステレオタイプ的なイメージがそもそもの東大生の基準点としてそれにどれだけ近いかで「東大生らしい/らしくない」と言われてしまう場合があります。学内の人が身内の間柄で冗談半分に自己言及に近い感じで言うならまだしも、実際の感じをこうしたステレオタイプなイメージしか知らないような部外者の方にこれを言及されたりするのには不快感を覚える人は多いのではないでしょうか。

 

 

ジェンダーから規定される「らしさ」

そして、この“らしさ”や“クソデカ主語”よる断定の問題はジェンダーに関わる場合更に深刻度が増します。「ジェンダーがどうである」というのも「東大生である」やら「ボーカロイド音楽が好き」と同様に属性の一つともいえますが、人の根幹にかかわる最重要の属性であることは皆さんもこれまで生きてきた中で十分実感していることでしょう。先に上げた属性は生きていくうえで頻繁に出てくるかもしれませんが、ジェンダーという属性はどこで何をするにも常に人生に付きまとうものともいえます。そして、性別に関わるステレオタイプは人類の営みの中である程度固定化されてきた歴史的背景もあり、それがより自明なものとして会話の節々に入ってきてしまいます。例えば、私の友人の女性はあるとき「うどんやラーメンが好き」と言った時に「女なのに意外」と言われたり、食器を自分で洗うと言った時に「そこは普通に女子なんだね(笑)」と言われたりしたことがあるそうです。僕自身も「男なら泣くな」と言われたり、「全然男らしくない」と言われたりしたことは何度もあります。皆さんもこういう言説は何度も耳にしたことでしょうし、普通に会話の中で言ってしまっている人もいるでしょう。

しかし、「男らしい人」「女らしい人」にどんな人もなりたがっているというのは果たして自明のことでしょうか?社会に目に見えて存在するジェンダーイメージに沿ったありかたを志向するのは全ての人の共通の目標なのでしょうか?望んでないのに「女らしさの度合い」や「男らしさの度合い」を評価されたり、時にからかわれたりすることが往々にして発生していないでしょうか?

 

 

「“あなた”らしい」「“じぶん”らしい」とは?

 これまで言うってきたようなステレオ的な見方によって自分が規定されるというのは何も自分の内にある属性だけの話ではありません。自分自身ですらそのステレオタイプが生まれる対象となりえます。それは、「あなたらしくない」だったり「お前そんなキャラだったっけ」というような言説です。

これらは他者が持つ「僕」についてのステレオタイプの押し付けであるということができます。僕がその他者に見せた行動や言動が他者の視点から切り取られ、統合されて「僕に対するイメージ像」を作り上げられ、「お前は私が作ったこのイメージの範疇に収まる行動をするものだ」という圧力をかけてくるのです。勿論、発言者にこうした明確な考えあることはほとんどないでしょうが、結果的に他者が抱いた幻想の僕らしさに沿って行動しなければならないように思えてきてしまいます。そして質の悪いことにこのような言説は多数の他者がいるときにも頻繁に使用されるもので、そこでの他者からの圧力は集団的でより強大なものとなり、有無を言わさぬ迫力をもってこちらに襲い掛かってくるものであると僕は思います。

 そもそも、「自分らしさ」って何なのでしょうか?今の自分を決めているのは現在進行形でいるところの“この”自分なわけで、それ以外の何物からも本質的に決定付けられるものではないでしょう。しかし、時に「自分らしくありたい」と一人称視点から語るときもあります。僕もそんな風に思ったことがありますし、「自分らしい自分になる」ことがよしとされるような社会の昨今の傾向も感じている人は多いのではないでしょうか。「自分らしい自分でありたい」とは「他者から規定されない自分でありたい」という意味で使われているでしょうが、それは逆に「自分が規定した“自分らしい自分”でありたい」という意味も持つことになります。ここでの自分らしさを規定しているものは自分の過去の行動や思考に紐づけられたものであるでしょうが、それは本当に自分自身そのままを表しているといえるのでしょうか?「自分らしくあり“たい”」といって願望しているということはつまり、今の自分を決めている現在進行形でいるところの“自分”と「自分らしい“自分”」は違うということがわかります。何を当たり前のことを、と思ったかもしれませんがそれはその通りで、「自分らしさ」というものもそもそも幻想であるわけです。「本来の自分のステレオタイプ」はなりたいと思っているということで原義的に実際に存在しているものとはなりえないのです。

 

おわりに

当人である自分自身がもつ「自分らしさ」ですら幻想であるのに他人の視点で見た自分の行動の一部の、そしてその表象だけで規定する「あなたらしさ」というのはどれだけ当人から外れたものになっているかは言うまでもないでしょう。そして、その全体性の一部である属性だけを切り取って考え出された“らしさ”と当人自身との乖離はさらに激しものとなるでしょう。そんな的外れなもので自分自身を規定されるというのはあまり心地いいものではないでしょうし、そうなるように圧力をかけられるのはとても息苦しいと思います。しかし、僕も含めてどんな人(クソデカ主語)も他者に対して言語的なイメージや「らしさ」といったもので理解せざるを得ません。自分自身でも本当の自分らしさを発見することはできないのだから他者となればなおさらです。そうした解像度の劣るイメージでだけしか、僕たちは他人を認識することは不可能なわけですから、それが相手当人の本質を突くものだと思い上がらず常に自分のステレオタイプなイメージが先行して相手を見てしまっているのだということを忘れてはならないと思います。これはこんな偉そうなことを言っている僕も同様ですので、この文章は自戒の意味合いもあるわけです。みなさんが自分の持つ誰かや何か属性に対しての偏見や、“らしさ”への自明視を考えるきっかけにこの文章がなれることを願ってこの辺で筆(実際にはキーボードですが)を置かせていただこうと思います。

ここまで読んでくださりありがとうございました。またの機会があればどうぞよろしくお願いします。

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それでは!(・ω・)ノシ